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施設の取り組み
愛媛大学医学部附属病院

多職種チームで挑む
抗がん剤曝露対策

愛媛大学医学部附属病院

01外来化学療法が増える中、
抗がん剤曝露に関する懸念が高まる

荒木 博陽氏(愛媛大学医学部附属病院 教授・薬剤部 薬剤部長)

HIROAKI ARAKI荒木 博陽氏(愛媛大学医学部附属病院 教授・薬剤部 薬剤部長)

愛媛大学医学部附属病院(三浦裕正病院長・626床)は、1976年10月の開院以来、愛媛県の主要な中核病院の1つとして発展し、地域に根ざした医療を提供してきた。がん医療の分野では、2007年に「地域がん診療連携拠点病院」に指定され、それ以降は県内のがん診療連携拠点病院やがん診療連携推進病院と協力・連携しながら、地域のがん医療水準の向上にも努めてきた。なかでもリーダーシップを発揮して取り組んできたのが「抗がん剤曝露対策」である。

薬剤部長の荒木博陽氏や腫瘍センター長を務める薬師神芳洋氏によると、同大学病院においても他院と同様、長年にわたり、医師が抗がん剤の調製を行っていたという。2003年に外来化学療法室が設置されると、医師からの強い要望を受け、薬剤師が抗がん剤の調製を行うようになった。当時は設備、スタッフとも十分ではなかったため、院内の改修工事に伴い、外来化学療法室も改装して設備を充実させた。薬剤部では治療室の隣に設置された調製室に3名の薬剤師を常駐させ、患者指導に出向ける体制も整備した。ちなみに現在、腫瘍センター内に設置されている外来化学療法室では年間3,000件を超える外来化学療法に対応している。

こうして外来化学療法室で使用する抗がん剤の調製が薬剤師の通常業務になるとともに、安全性に対する関心が高まり、同時に外来化学療法を受けている患者さんやそのご家族から「抗がん剤治療を行っている最中に、子どもと接触しても大丈夫か」、「患者本人と家族の衣類を一緒に洗濯してもいいか」といった日常生活にかかわる質問も多く寄せられるようになった。

02曝露対策を推進するうえで立ちはだかる
コストとエビデンスの壁

薬師神 芳洋氏(愛媛大学大学院医学系研究科 臨床腫瘍学講座 教授/愛媛大学医学部附属病院 腫瘍センター長)

YOSHIHIRO YAKUSHIJIN薬師神 芳洋氏(愛媛大学大学院医学系研究科 臨床腫瘍学講座 教授/愛媛大学医学部附属病院 腫瘍センター長)

こうした声を受け、「抗がん剤の曝露問題は当院だけではなく、がん治療に取り組むすべての病院に共通するものだ」と感じた薬師神氏は、自身が代表を務める「愛媛県がん診療連携協議会がんの集学的治療専門部会」の議題の1つに取り上げ、県内の7つのがん診療連携拠点病院で化学療法に従事する医師、薬剤師、看護師の3職種で解決に向けた話し合いを始めた。「当時、どこの病院も積極的な曝露対策を行っておらず、医師が抗がん剤を調製していた医療機関もありました」と薬師神氏は打ち明ける。

そして、お互いに情報を持ち寄り、検討を重ねる中で、抗がん剤の調製から患者さんへの投与、残薬の廃棄という一連の流れにおいて「閉鎖式薬物移送システム(closed system drug transfer device:CSTD)」を使用することによって曝露防止効果があることがわかり、それぞれの医療機関でCSTDを導入し始めた。「ところがいざ導入してみると、コストがとてもかかることが明らかになったのです」(薬師神氏)。

薬師神氏によると、抗がん剤の曝露対策を推進するうえで2つの大きな壁が立ちはだかるという。1つはコストの問題だ。2010年、2012年の診療報酬改定により揮発性の高い抗がん剤3剤(イホスファミド、シクロホスファミド、ベンダムスチン塩酸塩)に対してCSTDを使用した場合は150点、それ以外の抗がん剤の場合は100点の診療報酬が請求できるようになった。しかし、調製時だけでなく投与時、廃棄時においてもCSTDを導入するとなると莫大な費用がかかり、医療機関の持ち出しは避けられない。

もう1つの問題は、抗がん剤の曝露に関するエビデンスがほとんどないということだ。「どれだけ曝露したら健康被害が起こるのか、どこまで曝露対策を行えば安全が確保できるのか、そもそも治療の現場がどのくらい曝露されやすい環境となっているのかというデータさえ示されていないのです。エビデンスに基づいた方法でなければ、我々がどんなに努力しても効果的で安全性の高い曝露対策を行うことはできません」と薬師神氏は苦渋をにじませる。

03エビデンスの創出を目標に
多職種で環境曝露実験に取り組む

河添 仁氏(愛媛大学医学部附属病院 薬剤部 主任・がん専門薬剤師)

HITOSHI KAWAZOE河添 仁氏(愛媛大学医学部附属病院
 薬剤部 主任・がん専門薬剤師)

このような実情の中、荒木氏や薬師神氏は病院に対して曝露対策の必要性と重要性を熱心に説き、診療報酬の請求が認められる以前から同大学病院では入院および外来化学療法室で使用される抗がん剤の調製にCSTDを導入し、積極的な曝露対策に取り組んできた。そして、「曝露対策をさらに前進させるためには、さまざまな角度からデータをきちんと取り、コストの問題も掘り下げたうえで病院に働きかけることが大切だと考えました」と荒木氏は説明する。

そこで、新たなエビデンスを創出することを掲げ、腫瘍センターの医師、外来化学療法に従事する薬剤師、看護師が協力して「抗がん剤の調製から投与までの医療従事者に対する抗がん剤曝露対策の評価1)」の研究に取り組んだ。この研究では、CSTDの新規デバイスであるBDファシール™プライミングセット2)を使用し、なおかつ看護師の点滴手技を見直すことによって、投与時の看護師への抗がん剤の曝露を減らせるという仮説を立てたうえで2種類の抗がん剤(シクロホスファミド、パクリタキセル)を用いた環境曝露実験を実施した。

この研究の狙いについて、薬剤部主任の河添仁氏は「薬剤師はこれまで自分たちが調製する際に曝露しないようにCSTDを使用してきました。しかし、抗がん剤の曝露は調製時だけでなく、患者さんへの投与、残薬の廃棄といった一連の過程の中で発生します。次のステップとして、薬剤師の業務を引き継ぐ看護師をはじめ清掃業者や洗濯業者、さらには患者さんのご家族の健康を守る観点から曝露対策を考える必要がありました」と説明する。

図.抗がん剤投与時における環境曝露実験
抗がん剤投与時における環境曝露実験

この環境曝露実験では、シクロホスファミドはCSTDを使った閉鎖系での調製を行い、薬剤師によるプライミング(ルート内を薬液で満たすこと)の有無を比較した。また、パクリタキセルは開放系での調製を行い、看護師によるバックプライミング法(各輸液ボトルに接続する前にメインボトルの生理食塩液をルート内に逆流させて満たすこと)の有無を比較した。その結果、シクロホスファミドではプライミングセットを使い、調製から廃棄までの一連の過程を通して閉鎖式環境を維持することによって抗がん剤の職業曝露を防止できる可能性が示唆された。

一方、パクリタキセルでは看護師の点滴手技をバックプライミング法に見直したことで、点滴準備から廃棄までの過程において抗がん剤の飛散を防止することができた(図)。

「ただし、調製時に薬剤師が抗がん剤に曝露していることが判明しました。調製時の曝露は、それ以降の過程において汚染の拡大につながるため、点滴手技の改善だけでは曝露対策としては不十分であると考えます」と河添氏は指摘する。この結果を踏まえ、本研究では「パクリタキセルにおいても調製時にCSTDを使用し、投与管理時にバックプライミング法を用いる組み合わせが曝露対策として有用な可能性がある」と述べている。

04安全性とコストの関係も明確に示し
病院の理解を得る努力を

秦 晃二郎氏(九州大学病院 薬剤部・がん薬物療法認定薬剤師)

KANA NAKAUCHI中内 香菜氏(愛媛大学医学部附属病院 
看護部・がん化学療法看護認定看護師)

この環境曝露実験ではコストについても比較された。本研究の推算によると、プライミングセット導入前における点滴ルートの構築費用は患者1人あたり1回の投与につき1,020円だったのに対し、導入後の費用は患者1人あたり1回の投与につき4,139円となり、約4倍の費用がかかることが判明した。「看護師の経験を問わず確実に曝露を防止できるため、プライミングセットの導入効果は高いと考えられますが、当院の場合、全病棟に導入すると点滴ルートの購入費だけで年間1,000万円を超える可能性があり、費用面でのデメリットは大きい」と薬師神氏は指摘する。
しかし、安全性とコストの関係をきちんと示したことは無駄ではないと考える。「バックプライミング法を導入すると費用は確かに抑えられます。しかし、手技が煩雑となる可能性があることから看護師の経験に左右されるリスクがあることもわかりました。コストはかかるけれど、医療安全の観点から必要経費として認めてほしいという病院への強いアピールになったと思います」(薬師神氏)。これらの実験結果を生かし、同大学病院では外来化学療法室と血液内科病棟で使用する抗がん剤の調製に新たにプライミングセットを導入した。費用の問題は残されているものの、他の病棟にも段階的に拡大していく見込みだ。

また、この環境曝露実験を行ったことで看護師への教育的効果もみられた。「抗がん剤の曝露については病棟単位で勉強会を続けてきたものの、曝露対策が後回しになっていたのが現状でした」と看護部の中内香菜氏は打ち明ける。抗がん剤の曝露は目に見えないだけに病棟の看護師たちが危機感を持つことがなかったのだ。ところが実際に曝露の量を測定してみると対策を必要とするほどの量が検出されたので「目に見えないリスクに対してもしっかり認識しなければ」と看護師の意識が徐々に変わってきているという。中内氏は「曝露の知識を病棟に浸透させる機会」だと捉え、当面は看護師の教育に力を注ぎたいと考える。

院内には「院内医療安全管理マニュアル」があり曝露対策の基本となっているが、投与管理に関する曝露対策の詳細な記載がないため、曝露対策マニュアルの整備に取りかかっている。ガイドラインでは投与管理においてガウン着用が推奨されているが、看護師が抗がん剤を投与するたびにガウンを着用すると作業が煩雑になり、かえってリスクが高まるおそれがある。「今回の実験を踏まえ多職種で話し合った結果、CSTDやプライミングセットを用いて調製、投与、廃棄などの作業を行えば、医療従事者の防御は最低限の備えでよいのではないかという結論になりました。安全性と効率のバランスのとれた対策の実現に向け、第一歩を踏み出すことができました」と中内氏は評価する。曝露対策マニュアルを早急に整備し、この方法での実践をモデル病棟を通じて推奨していく計画だ。

05社会的問題を孕む患者家族への支援は
医師への働きかけがカギに

抗がん剤の曝露対策をさらに前進させるために解決しなければならない問題は他にもある。たとえば、薬剤師が全病棟の抗がん剤を調製し、プライミング作業まで担当することになると現在のスタッフ数ではとても足りない。また、配置の関係で抗がん剤の調製業務に常に携われない薬剤師もいるため、そのスキルにも差がある。河添氏は「薬剤師が正しい知識と調製手技に自信を持って抗がん剤の調製業務に取り組み、なおかつ安定的に供給していくためには質の向上が大前提となります」と口元を引き締める。荒木氏も薬剤部の最優先課題に人材育成を挙げ、「がん専門薬剤師を中心に教育体制が整ってきたので、薬剤部全体でより一層のレベルアップを図っていきたい。指導的な薬剤師をいかに増やせるかということにかかってくるでしょう」と決意を述べる。

一方、薬師神氏は「どの医療機関も同じ状況に置かれているようですが」と前置きしたうえで、曝露対策への医師の理解が進まないことを嘆く。「指導的立場であるにもかかわらず、抗がん剤の曝露対策は自分たちの仕事ではないと考える医師が実に多いのです。そこで問題になってくるのが患者さんやそのご家族に対する説明責任です。家庭での抗がん剤の曝露に対する不安や心配が高まっている今、そのサポートを行うために必要な知識を身につけることが医師には求められています」と薬師神氏は指摘する。同大学病院では腫瘍センターと薬剤部が中心となって定期的に講演会を開催したり、曝露対策に関するパンフレットを作成するなどして啓発に努めているが、思ったような成果を得られていない。「がん治療に関連する専門医の資格を取得あるいは更新する際の必修科目として曝露対策を位置づけるなどの工夫をしないかぎり医師の理解は広がらないのではないか」と薬師神氏は懸念する。

同大学病院では、外来化学療法を受ける患者さんやご家族を中心に家庭における抗がん剤の曝露対策やサポートについても取り組み始めたので、医師の理解を深めることは避けられない課題となっている。「ご家族の中には“がんに罹患したというだけでも患者本人はつらいのに、さらに曝露の問題まで騒がれて日常生活を制限されるのは酷だ。寝た子を起こさないでくれ”という人もいます。こういった社会的な問題も孕んでいる中で医師は患者さんやご家族をサポートしなければならないことを認識してほしいと思います」(薬師神氏)。

そして、社会的な問題を大いに孕んでいるからこそ、誰もが納得できるように、これまで以上にエビデンスを求めていきたいと考える。その思いはともに曝露対策を推進してきた薬剤師や看護師も同じだ。「これからも精力的に研究を続け、学会発表や論文報告を通じて他院の曝露対策に活かしてもらうとともに、国にもアピールし診療報酬にも反映させたい」と荒木氏は意欲的だ。この活動にはさまざまな壁が立ちはだかるが、多職種で取り組んできたことが曝露対策の質を高めたという自負もある。エビデンスに基づいた効果的で安全性の高い抗がん剤曝露対策を――。この大きな目標を掲げ、愛媛大学医学部附属病院多職種チームの挑戦は続く。


2016年1月取材

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